昔の思い出
懐古趣味と思われるかもしれませんが、もうこういう時代は来ないと思います。
廃れた行事もあります。
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近所
自宅の周りのお店屋さん
私が育ったところは「城の後」という集落。里山に山城があったそうです。
さて自宅周辺ですが、昭和30年頃「昭和街」と言ってにぎわっていました。
傘屋(和傘を作ったり、修理していました。)
鍛冶屋(農機具を作っていました。ふいごもありました。)
お店屋(酢や、塩は量り売りでした。)
魚屋(40キロ離れた枕崎から魚は持ってきていたようです。)
トタン屋(トタンの需要が多かったのでしょう。)
着物屋(こんなところでも売れていました。)
電気屋(テレビがない時代。ラジオはここから流れて各家庭ではスピーカーのみで聞いていました。)
お菓子屋(ここのお菓子は絶品でした。夏はアイスキャンディを製造していました。)
精米所(籾を持って行って、白米にしてもらっていました。)
茶屋(みんなここで休憩していました。)
酒屋(町内の焼酎「八幡」と「寿」しか売っていませんでした。)
駐在所(警察官の家族が常駐していました。犯罪は0でした。)
自転車屋(自転車のパンク修理などやってくれました。)
肉屋(各戸、現金収入のために春に子豚一等仕入れて、秋に大きくして売っていました。もちろん黒豚です。)
これらの店は現在、一軒も残っていません。
年賀式
学校にいって「年賀式」と言うのがあって、「一月一日」と言う歌を歌って校長先生の話を聞いていました。
「年の初めの例とて終わりなき世のめでたさよ 松竹たてて門ごとに祝う今日こそ楽しけれ」
年賀式ですので、先生方は正装です。
もちろん来賓も来ていました。
私たちは帰って遊びに行きます。近所の子どもたちで「金輪投げ」とか「ウサギ狩り」をしていました。
親は学校に行って先生方と宴会でした。その流れで家に先生方も来ていました。
親の挨拶は「よかしょがっどんごわいなあ、わこないやしたろ。(いい正月ですね。ひとつ若くなったでしょう)」と言っていました。
12月31日は年取りの晩といって氏神様が各人の歳を取っていくという謂れがありました。そのため1歳若くなったと言うのです。
「金輪投げ」、、道路の上と下の二つのグループに分かれて金の輪(大きな金の輪に小さな輪が二つついているもの)を投げる組と受ける組に分かれます。金の輪を受けるには長い竹を縦に十文字に切り裂きそこに金の輪を突き刺して受けていました。投げた組は相手に捕まらないように逃げていました。捕まったら捕虜になるのです。
車も通らない田舎道ですので、いつまでも遊んでいました。
「ウサギ狩り」、、里山にはいっての鬼ごっこです。
雑木に登ったり、草薮に忍んだりして鬼に見つからないように隠れていました。
二才講
以下の内容は50年前の話である。
私が育った大字高田字城の後地区には「にせこう」という集まりがあった。
1月には新加入の、12月には脱会の集まりがありますが新加入を中心に話します。
これには15歳から30歳までの男子しか加入できない。
まず15歳のなったとき、「15ないの仕事」をする。
どういうことをするかと言うと「追分」を作ること。
追分とは道しるべのことで、地区内の三叉路や曲がり角に右に行ったら○○地区、左に行ったら△△地区というものを作ること。
僕のときは地区内に4人の男性がいたので4人で話し合って作った。
これを、「にせこう」がある日までに作る。
にせこう当日は15歳になった僕らは16歳、17歳の先輩と一緒に夜の宴会の買出しに行き調理します。買出しといってもスーパーがあるわけではありませんので、鶏は農家に行って2,3羽分けて貰い自分たちで捌きます。豆腐は5丁ほど買ってきてそれを自分たちで厚揚げや薄揚げにします。
にせこうの行われる場所は、先輩の自宅を借りて行います。
まず、先輩の家の一部屋に僕らが作った料理を並べ、地区の15歳から30歳までの男性のみが集まります。この部屋には女性は入れません。また男性であっても30歳過ぎた人は入れません。
まず、会が始まる前にお経を唱えて亡き先輩を弔います。
その後は15ない(15歳になった人)が前に座ります。
15ないに対し、年長者より講話があります。
「あなたたちは今日から大人の仲間入りだ。昨日までの子どものようなことはするな。」
「挨拶はきちんとしろ。」
などと、大人としての自覚を促す話があります。
その後入会の儀式があり、食事宴会です。
この日の参加者やかかった費用、買った品物などを大福帳の様に記載します。過去の参加者には、父や父の兄弟、そして兄も記載されています。
この日から大人として周りが見てくれます。また責任も出てきます。
例えば、地区内の道普請でも僕らが参加すると○になりますが、女性が出ると△でした。
(「15ない」とは15歳になったという意味。)
うっがんまつい(氏神祭り)
毎年旧正月には「うっがんまつい(氏神祭り)が行われます。
私ん住んでいた集落はおよそ30世帯ありますが、「今村」「内村」「牧田」の姓の住民で構成されています。
牧田姓でのうっがんまついを書きます。
この日は「おんなどん」と言われるお宅に牧田姓の老若男女が集まります。
私たち子どもは学校から帰ったら、おんなどんのうちに直行です。おやつは焼きおにぎりです。
集落の裏山(ずやま~昔、山城があったとされる)の中腹に牧田家の氏神様を祀る社があります。
夕方はみんなで、その社に行って無病息災をお祈りします。
おんなどんの家では、大人と子供では座る位置も違っていました。
大人の男子(15歳以上)は居間でも奥の間です。奥の間でも年齢順に座ります。
大人の女子は台所、子供たちは蓆を敷いた土間です。
この日は「ゆなます」という料理を食べます。
食事の後は大人は酒盛りです。
子供たちは、婆さんたちからしりとり歌や、折り紙、長幼の序などを習います。
この日は、牧田姓の家族みんなが集まりますので、4,50名になります。
しかし昭和50年ごろから、家族全員ではなく、家長のみの集まりになったということです。
注1、ゆなます~~サバと短冊切りにした大根を塩と酢だけで味付けした煮物。あっさりした味です。
注2、しりとり歌~~日露戦争を題材としたもの。
日本の・乃木さんが・合戦す・すずめ・メジロ・ロシヤ・やまん国・クロパトキン・金の玉・負けて逃げるはちゃんちゃんぼ・棒でたたくはいな殺し・シベリア鉄道長けれど・土瓶の口から吐き出せば・バルティック艦隊全滅す・すずめ・メジロ・・・と続いていく。
花見
桜の開花と同時に思い出すのが、集落の花見です。
里山は「城山(づやま)」として親しまれていました。
その頂上は広場になっており、いろんな遊びができました。そこでは4月になると、地区の人総出で花見をしていました。
各家庭から料理を持ち寄ったり、婦人会の皆さんの踊りもありました。
そこでうたわれるのが「高田音頭」でした。
歌詞は
「花が咲きます城の下通り
いで湯通いのほろ酔い気分
なさけ承知の乙女の春に
集う娘の声の良さ
高田、高田
住んでみやんせ よかところ
ほんにそうじゃないか よかところ」
です。
今でも口ずさんでいます。
あくまき(竹の皮巻)
あくまきとは、鹿児島独特のものです。今でこそスーパーや、物産館で売っていますが、昔は各家庭で作っていました。
あく(灰汁)巻きは、あく(灰汁)を作ることから始まります。
大きなざるに布巾を敷き、灰をのせ、水をかけます。すると、下の容器に褐色の汁が落ちます。これを溜めていきます。
もち米は前日洗って、一晩灰汁につけておきます。
乾燥させて、準備していた孟宗竹の皮を一晩水につけて、広がったところに灰汁につけていたもち米を入れて、竹皮の横の方から折り曲げて次に根本、穂先と折っていき、もち米を包み込みます。結び帯として3~4か所竹の皮の端を切り裂いた物を使います。
こうして準備したあくまきを窯の中に並べていきます。その後あくまきがひたひたになるぐらい灰汁を窯に入れて、4時間以上似ていきます。学校から帰ったころに煮上がっています。長時間煮ることで、米粒が消え、鼈甲色に仕上がります。
出来上がったあくまきは親戚や、都会に出ている子供たちに郵送されていました。
結び帯を解いて、開けた時の鼈甲色のあくまきは何とも言えません。各家庭で作るあくまきはその色や、大きさ、包み方などが違います。鼈甲色ではなく、薄かったり、黄色っぽかったりします。米粒が残っていることもあります。そういうのは美味しくありません。
あくまきを食べるときは、竹の皮をむき、鼈甲色に染まった現物を包んでいた、竹の皮を切り裂いて糸状にして、輪切りにしていきます。粉状にした砂糖をまぶしたり、きな粉と砂糖を合わせた物をまぶして食べます。
六月灯(ロッガッドウ)
7月になると、「ロッガッドー」の呼び名で親しまれている、六月灯(ろくがつどう)を思い出す。私も小さい頃は灯篭を作っていた。近くの鎮守の森に自作の灯篭が飾られるが、低学年は10ミリ角材で作った灯篭に自分で描いた絵や字を張るのみであるが、高学年になると、回り灯篭を作る。10ミリ角材で枠を作り、真ん中に芯を立て、その上に回る仕組みを作る。そこから垂らしたタコ糸に飛行機や鳥などの絵を張り蝋燭を灯して出来上がりです。個性豊かないろんな灯篭が出来上がり、圧巻でした。昭和30年代の話です。私の田舎では今はすたれた行事の一つです。鹿児島市内では盛大な六月灯が神社で繰り広げられています。
カセ巻き糸の思い出
昔、母からカセ巻き糸の糸巻の手伝いをさせられた(したのではなく、させられたのです。)。
カセ巻きにしてある糸束を、私の両腕に通させ、母が別の台紙に巻いてくのです。
両腕に通したカセ巻き糸は母が手繰ることによって小さくなっていきますが、つい両腕の力が抜け、だらんとなります。そうなるとうまく台紙に巻けません。慣れてくると、母のスピードに合わせてこっちも両腕を回していきます。
そんな時母は、「お前のおかげで早く終わった。ありがとうね。」と言っていた。...
私は、今、一人でカセ巻き糸の台紙巻きをしています。カセ巻きにしてある糸を両足の親指にかけて、そこから台紙に巻きとっていきます。こんなたわいもないこともやっています。
十五夜の行事
私が住んでいた鹿児島県川辺町城の後地区では、旧暦八月十五夜に綱引きと相撲を行っていました。綱引きの綱は茅や藁などの材料集め、綱作り、綱引きをして最後は相撲となっていた。
私たちは城の前集落と城の後集落の2集落で主な行事は行っていた。
まず十五夜が近づくと、子供たちは夜、観音様の広場(カンドンサマと言っていた)に集まり、十五夜前日までの2週間ほど相撲の練習をしていました。夕方から夜になりますので、各人が交代で薪用のマキ(アカイノセと言っていた。)を持ってきてその明かりで練習をしていた。
あかりの付け方、消し方、火の始末は全部子供たちで行います。
子供たちと言っても男の子だけです。
十五夜の前の日は山に行って、茅やカズラをとってきて、藁と一緒に綱を作ります。(この状況は南薩摩の十五夜行事に詳細に記述されています。)
十五夜前日の晩は相撲の稽古に行く時、こんなフレをしていました。
「あしたんばんなじゅうごや、おじさんのしもおばさんのしもはよしてきっくいやんせ。」(明日の晩は十五夜です。おじさん達もおばさん達も早くしてきてください。)
十五夜当日は集落の老若男女が集落に通じる道路に出てきて集落ごとの綱引きをします。
それが終わると、農協前の広場にみんな集まって相撲です。
この相撲は子供だけが参加します。
参加できるのは、小学1年生から中学生までの男の子です。
もちろん呼び出しや行司も子供たちが行います。
勝負が付いたときは上級生が買っていたノートや鉛筆などがふるまわれます。大人は見ていて息子や孫に対して声援をおくります。
この綱も僕が中学3年の頃、ロープになってしまいました。
綱引きにはこういういわれもあるそうです。
「十五夜の綱にかかれば(さわれば)風邪ひかん、綱を引けばなおひかん」と。